昭和56年2月21日 朝の御理解                  中村良一

御理解 第91節
「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。」



教祖生神金光大神様は、やはり、一般にいう、信心修行と言うか、あられもない行をも、一応はなさいました。ね。ま、例えて言うなら、火の行、水の行といったような行も、これを、あられもない行だと、こう言うて退かしておられるところに、金光教の信心の、おー、修行感があるのです。だから、んー、あられぬ行、何とはなしに信心とは、こう、陰鬱な茨の道を歩くといったようなことが、信心修行のように言われ、思われ、またそれが、行じられてきておった時代ですから、今でも、やっぱり、そうですけれども、教祖金光大神は、ここんところを、はっきりと、此の方の行は、火や水の行じゃないと、家業の行じゃと。表行よりも心行をせよと、もう、はっきりと、教え示された。えー、ですから、私共が、信心の稽古をさせていただこうという姿勢を持って、姿勢を作って、えー、信心の道をいそしませてもらい、また、進めさせていただこうとすると、ね。いわゆる、家業の中に行があるのですから。自分の心一つで、行が出来るのですから、ね。みやすいのです。茨の道ではない、ね。もう、日々のあり方の中に、いうならば、ありのまま、そのままが修行として受けていく手立てを説かれた。合楽では、そこんところの修行を、成り行きを大切にせにゃ、成り行きを尊ばしてもらわにゃとこういうわけです。それが、修行なんです。ね。だから、その修行なしにはね。いわば、いかに、後々の者は、みやすうおかげが受けられると言われても、ただ、ぼんやりしとって、お願いしますというただけでは、おかげにならんです。ね。みやすうおかげを受けられる。姿勢を作る、構えを作らなければ、ね。生活そのものが修行になりません、ね。今日もただ、あぁ、きつかったというような事で終わってしまう。きつかればきついほど、ね。難儀であったらあったほど、結構な修行させていただいて有難しという事になると。百よりも、二百の修行させて頂いたほうが、有難い事になってくる。ね。みやすうという事は、稽古をしようという姿勢、構えを作るという事。そしてその修行は、いうならば、合楽で言われる、成り行きを大切にするなり、成り行きを尊ばしてもらうといったような行なんです。家業の行であり、心行であり、ね。
昨日、んー、今、毎朝、寒修行からお参りを続けておられます、大木の吉田さん、今日も参っておられます。えー、近所の方と一緒に参られるわけですが、ここの神様への、いわゆる、姿勢を作り、構えを作っての寒修行であった。初めて、永年、合楽にご縁を頂いておったけれども、初めて信心の、日々の有難さ、楽しさ、しかも、愉快にまで感じられる、リズムをも、この頃感じて行っておられる。生活が楽しゅうなってきた。有難いものになってきた。ね。構えを作ったら、そうなんです。いわゆる、寒修行から、こうですから。どうですか、五十日あまりの日参で、ほんなら、今、吉田さんが感じておられるような心の状態が開けてきたら、ほんとに幸せだとこう思う。これから、どんな素晴らしい信心が開けてくるだろうかと、楽しみ。
先日も、お夢の中に、巡りの事をいただかれた。めぐりそのものが、難儀を形成するんだと、難儀を作っていくのだと。そこで、その、巡りのお取り祓いを頂く事のためには、そういう信心をしたら良いだろうかという事になってきた。ね。そしたら、天地に対する還元と頂かれた。天地に対する還元。どういう事でしょうかと。さぁ、どういう事じゃろうかなぁと。教えて貰うて、すぐ分かったんじゃ、やっぱ、自分で、心を練らにゃいけん。天地への還元、天地への還元と、まぁ、二三日思い続けられた。ね。そしたら、昨日、自動車で、久留米のほうへおいでられておった、その道中でです。ある三叉路に来た時、ちょっとやっぱ、自動車がゆっくり走りよる時に、ちょっとその、おー、窓から見えたポスターがあった。それは、何か、税務署か何かのポスターらしかった。ね。それに、目に付いたのは、お国のためにお役に立てて下さいと書いてあった。ね。恐らく、税金を納める。もう、いやいやで納めるじゃなくて、この税金が、どうぞ、お国のお役に立つようにというような意味のポスターじゃなかったでしょうか。ね。自動車に乗りながらですから、はっきりは分からなかったけれども、そこだけが目に付いた時に、ひらめいてきたものは、はぁ、天地への還元とは、これだなぁと思うたというお届けが、昨日ございました。素晴らしいでしょう。永年、合楽で稽古しておる人ならば、言うなら、天地への還元と聞いただけで分かるのだけれども、ね。そこを、今まで教えを頂いておらんから、分からなかったけれども、ね。教えて貰うて分かるのじゃない。神様が、自然の中に、そうした働きを見せて下さった。どうぞ、お国のお役に使うてくださいという心の状態で、税金が納められたら素晴らしい。ね。皆さんが、例えば、ここで、お供えをなさる。これが、いうならば、ね。神様の、いわゆる、御神願が成就する事のための、お役にお使いくださいという内容になったら、それはもう、そのまま、天地への還元です。素晴らしいです。それによって、ほんなら、巡りのお取り祓いもいただければ、御徳も受け、力も受け、おかげも受けられるという事になるわけです。ね。命を還元するのです。命を奉るのです。着物でも、食べ物でも、ね。例えば、お金でも、これは、私共の命です。ね。それなしには生きられんのですから、命でしょうもん。その命を奉るのである。命を天地に還元するのである。こんな確かな還元はない。そこに、巡りの出ようもないじゃない、巡りのお取り祓いともなり、お徳ともなり、力ともなり、おかげになってくる。
これも昨日、この方も寒修行から、ずっと、親子で参っておられます、うー、熊谷さんのお導きで、ご縁を頂かれた方。鎌瀬さんという、吉井の田舎のほうから参ってくる。昨日のお届けの中に、その前日、帰ってから、御祈念をさせていただきよりました。新しく出来た、あの拝詞を奏上させていただきながら、まぁ、自分としては、一心不乱に拝みよるつもりだったけれども、いつの間にか眠ってしまっておった。そしたら、まぁ、お夢とも、御神願とも分からないけれども、ご神前で、親先生が、御祈念をなさっておられた。その、御神前に向って、御祈念をしておられた先生が、くりっと反対のほうを向いてから、「そげな事じゃ、上に一心は届かん」もう、それこそ、大きな声で、びっくりするような声で、その、お知らせを頂いた。ね。構えを作るという事が、大事でしょうが。ただ、御祈念しとりゃ良か、居眠り半分で良いち言うことは無いち言う。ね。それも、いわゆる、構えを作れば、そうせずにはおられんのであり、そうする事が有難いのである。ね。ま、いうならば、御祈念というて御祈念をしよるが、居眠り半分で、神に一心は届かん。そういうお知らせを頂いておられます。いかに、いうならば、あられもない行をして、そして、教祖金光大神様が、金光教での信心修行と言うのはこうだと。いうならば、やろうと思えが、誰でも出来れる見やすい行を示してくださった。そして、神様へ向う姿勢を教えてくださった。というても、みやすうと言うても、今日の朝に聞いていただいたような、信心を頂こうとする、その姿勢、構えを作らなければ、やっぱり難しいのです。そして、頂けんのです。本気で信心の稽古をしよう、本気で徳を受けよう、力を受けようと。そしたら、いうならば、天地の道理も分からしてもらい、天地のご恩徳も分からせてもらい。昨日の御理解ではないですけれども、ね。教祖様のお歌を例にとって、お話を申しましたですね。「このくらいなことなるからに、よからぬと、心許すに過ち起こる」と、言うなら、姿勢である、構えである。ところが、人間は、そういつも、心を張り弓のようにしとるばかりは出来ない。ね。神の大恩を知れば、子孫も続き、ね。身代もでき、一年まさり、代まさりのおかげが受けられるとある。昨日の御理解ですね。言うなら、神のおかげを知るという事。もう本当に、目が覚めて、神様にお礼を申し上げる時に、ね。もう、こげな大不思議があるだろうかと、ね。火難、盗難、水難と、様々な難儀を、数え上げれば、沢山あろうけれども、その全てから守られておる今日。しかも、目覚ましのおかげを受けた。こんな大不思議が、またとあろうかと、そこに、大不思議を感じるようなおかげ。ね。当たり前、もうそれこそ、何でもないといや何でもない。それが当たり前のようなものでなくて、そこに大不思議を感じれるような信心を頂きたい。それでいて、人間、生身の事であり、どこにお粗末が御無礼があるやら分からんのだけれども、このくらいなことと思うなかにもおかげありと、昨日の御理解でしたよね。ね。このくらいなことと思う、そのこのくらいな事のなかにも、神様のおかげがあるのだ。やっぱし、人間、腹の立つこともありゃ、夫婦喧嘩する事もあるけれども、金光様―で、いうならば、叩きあいをする夫婦喧嘩であるならば、それで良いのだと。ね。段々、そこが分かってくると、夫婦喧嘩もせんで済むようになる。拝みあいが出来るように、段々なってくるけれども、ね。夫婦喧嘩はしちゃ出来んぞ。叩きあいっこをしちゃ出来んぞという事ではない。その中にとても、神様のおかげがあるのであるから、それを感じて、言うなら、金光様で、夫婦喧嘩というような変な御理解でしたね、昨日の御理解は。そういうおかげを分かっていく事。おかげをいよいよ、同じことなんです。昨日も、今日も、大して変わりはないけれども、昨日は、百有難いと思うておったなかに、今日は二百のおかげを感じるようになるという事なんだ。ね。そういう信心を、いうならば、みやすう説かれた。それを、もっともっと分かりやすく、誰でも行じられ、誰でも合点がいくように説いてあるのが、合楽理念である。そして、ギリギリ、今日も成り行きを尊ばしてください、大切にさせてくださいというような信心修行に取り組ませていただく。ね。だから、信心を頂く、分からせてもらう、御徳を受けようといったような信心にならなければ、その構えができん。ただ、ちょっと、ざーっと拝んで、ざーっとお願いしときゃ、もうそれで、自分の思うとおりなるといったような、みやすうという事ではない。ね。それこそ、あられぬ行をしなければ、おかげが受けられんといったような時代の信心ではなくて、ね。いうならば、表行より、心行であり、家業の行そのものが、行としての姿勢であり。行として、また受けて下さるのであります。ね。みやすうというても、本気で信心の稽古をしようという構えを作らなければです。ね。神様が、次々と教導もして下さらん。今の、鎌瀬さんの話といい、吉田さんのお話といい、ね。こちらが、その気になって、そこに、例えば、吉田さんなんかもう、日々の信心体験がもう、楽しゅうしてたまらん感じである。ね。そういう、いうならば、実験実証を、日々させて頂くというところに、なるほど、信心は見やすいもんだという事にもなる。決して信心は、茨の道を歩くといったようなものではない事を、実証させていただきながら、御徳を受けて生きたい。どうぞ。